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追悼 雑記

私の生い立ちから/CD『Tango Improvisado/1995』ライナーノーツ

廣木光一(g)

1995年、ギターという楽器の可能性にやっと気がつき、ソロ活動を始め、勢い余ってすぐにレコーディングをした。なんとそのアルバムのライナーノーツを自分で書いた。初の長文でもあった。


今となれば稚拙で恥ずかしくもありますが、ここにご紹介します。

私の生い立ちから 1995.8.28

CD「タンゴ・インプロビサード(絶版)」ライナーノーツより

1956年8月17日未明、台風で停電する中、私は産声をあげた。川崎市生田の駅から歩いて30分ほどの山奥の集落には、農家が16軒と、祖父が新聞記者をしていた我が家の、計17軒しかなかった。野山と小川とたんぼに囲まれた、戦後11年目の農村。


タケノコ、椎茸、しめじ、梅、桃、梨、柿、いちじく、ざくろ、ニッキ、山椒、数え上げたらきりがない四季の恵み。枝じゅうに白い綿のような花をまとうこぶしの大樹。がけの上からは山百合の麗姿が我々を威嚇するかのように見下ろす。梅、紅梅、そめいよしの、八重桜へと、春のリレー。同じ紫でもその風合いを異にする、れんげ、あじさい、てっせん、桔梗。ウサギ、ニワトリ、チャボ、高麗キジ、孔雀も居た。そんな大自然の中を、子供たちは裸足でかけまわり(私は臆病だったから靴を履いていた)、クワガタ取り、ザリガニ、鮒釣り、刈り入れの済んだたんぼで野球、神社で缶けりに明け暮れた。

祖父の家


相撲の場所が始まると、大勢の近所の人がのら仕事を終え、風呂も入らずに泥だらけのまま、寛容な祖父のもとへテレビ観戦にやってくる。同居している伯父がテレビ局勤めだったことや、音楽芸能一般が好きな祖父の趣味も相まって、早くから、SONI(現SONY)の真空管式テープレコーダやステレオなどが有った。私はそれをいじるのが大好きだった。祖父は、私が手を出したがるのをいなしながら、マーチから長唄、クラシック、ジャズなどを幅広くエアチェックし聞かせてくれた。私は、ヴィレッジ・ゲートのハービー・マンというLPがお気に入りだった。


この自然とソフト&ハードに恵まれた環境は幸せだった。そして幸か不幸か、別居していた両親の代わりに、私を育てることになった祖父母、伯父叔母らに受けた影響が大きかった。特に祖父の気質、人生観は私の最も根源的なところに生き続けている。祖父・廣木新平は、新潟の片田舎の、ゆくゆくは県会議員にまでなった庄屋の息子として生まれた。しかし、当時この辺にはおかしな習わしがあって、結婚する前に一緒に住んでみて、相性が合わなければ解消も許されていた。案の定、新平が生まれてから、母子は追い出された。さらにその後、母は息子を捨てて再婚してしまった。ひとりぼっちになって喰うや喰わずの生活に耐えかね、ある冬の日、ボロ着をまとった少年が実の父親に助けを求めてお屋敷の門を叩いた。が、しかし、非情にも「そんな薄汚いガキは知らぬ」と門前払いを喰らった。この時、絶望と屈辱の中、幼心にも全てを悟り、また自立を余儀なくされた新平少年は、納豆売り、新聞配達などをしながら、苦学し、やがて警視庁詰めの新聞記者として活躍し、子宝にも恵まれた。

「廣木」になる


駅から村までの30分の道のりに、痴漢が多発した頃があった。新聞社を定年退職し次の会社に移った祖父は、近所の女学生を毎朝引率して仕事に出かけ、帰りは駅でみんな揃うのを待って、楽しく語らいながら帰宅した。空手の有段者だったこともあって、他にも武勇伝あり逸話ありの人生だった。私は、生まれてたった6年間のつきあいでしかないが、この力強く、心の広い祖父を尊敬し、誇りに思っていた。廣木新平は母方の祖父なので私は最初廣木姓ではなかったが、小さいころから渇望し、祖父没後12年目、18才の時に、私を溺愛してくれた祖母の養子に成ることで廣木になった。この年から私の人生は大きく変わった。ギターを始めたのもこの時だった。

師と出会う


アイデンティティと表現する道具を同時に手に入れた私は、引っ越しもした。祖母と二人で都心に暮らし始めた。そして、バンドを組んで、楽器店の店頭などで演奏しているころ、師匠高柳昌行に出会った。私が18から35才の17年間、自宅に通わせてもらい、練習方法、勉強方法、物事の考え方、その表と裏、音楽の歴史の重要さ、そして一番大事なリズムのことを、その人格からは想像できない駄洒落と共に話してくれた。

私が道に迷わないで済んだ17年間だった。

師匠もジャズ同様、タンゴが好きだった。サンバ、ボサノバはもともと大好きだった私だが、ある時、「ヒロキはラテンは好きか?」と聞かれ、即答し、師匠も参加していたタンゴバンドに参加するようになった。この時、ラテンという幅のある言葉を選んだことは、後になってよく解る。それは、ラテン音楽に共通して流れる血、激しさについての問いだった。温厚なだけでは決してタンゴはできない、激しさと危機迫るものがないとアルゼンチンタンゴにはならぬ、そしてそれはジャズにしても同じだと。その資質と覚悟を問われたのだった。

根源的なリズム


私たちはよく、リズムを刻むことを、「リズムをきる」と言うが、師匠は、「きれば血が吹き出すタンゴのリズム」と、その生命力、スピード、激しさ、深さを、愛着を込めて表した。
私にとっても、タンゴのリズムは、今まさに表現方法そのものである。決して不用意に流れることを許さない、一拍一拍が真剣勝負のリズム。小さい頃、祖父と共にタケノコを掘ったり、球根を植えるときに、細長いシャベルでいかに地中深く突き刺すか、小さい体で挑戦した。何度も繰り返し、旨くいったときは到達する快感があった。この感じがタンゴの深さと実に良く似ている。野山を駆け回っていたことや、小中学校に30分歩いて通っていたことも、2ビートという歩いたり船をこいだりするような、人間にとって一番自然で根源的なリズムに、異国の音楽なれどすんなり入っていけた理由かもしれない。

祖父が実父に門前払いを喰らったときに、「はいわかりました、それならもうけっこうです!」と言ったかどうかはさだかではないが、私はその性格を100%引き継いでいる。また、そのおかげで得も損もしている。そして、全ての価値、突き詰めることを常に実践、体感させてくれたのはJOJO(高柳昌行)さんだ。こんな影響を受けながら生きてきた私の、途中経過報告がこのアルバムだ。

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