ピッキングは精神力だ!/CDセカンドコンセプト・高柳昌行(JINYADISC B-1920)ライナーノーツ
<右折十年>…大巨匠の口から出てくるとはとても思えないこうしたダジャレが緊張する周囲を和ませる。髙柳の演奏や厳しい言動を知る方にとってはちょっと意外だろうか。ジャズはそもそも、その主題(theme)や音節(syllable)をもじって次のフレーズを生み出し連鎖させていく音楽。まねして、ひねって、皮肉って、先取りして、…こうしていくうちに言語野も鍛えられ言葉も次々に出てくるようになる。ジャズミュージシャンはダジャレやごろあわせが得意だ。そんなときに右折十年みたいなフレーズがパッと出たりする。しかしこれ自体に意味が無くてもそれが当て馬になり、また次へのヒントになる役割を果たしたりする。無駄でもなく無意味にも終わらない右折十年。やはり緊張は融けない。
【髙柳語録】 高柳は常々<人間読み書きが基本>と言っていた。<優れた即興演奏家はしゃべりも面白い、文章も上手い>高柳は音列と文章が作り出されることの、脳内での関連性の深さを早くから知っていた。多読多聴の奨励。塾生は作文の提出も毎回必須。<書けもしないのにアドリブが作れるわけがない>という教え。
<リズムが一番大事だ>
高柳の演奏を良くお聴きの方は、そのリズムに魅了されていることと思う。洗練されたフレーズを更に瞬間瞬間絶妙のタイミングを選んで弾く名人の領域。ここで言うリズムとは、一音一音のタイミング、音質、音色、音量 を注意深くコントロールすることだ。同じフレーズを弾いてもリズムが良い人の方が良い。最後の仕上げはここで決まる。
<アクセントを付けろ>
音列内のどの音を強調したいかはっきりすること。語調(intonation)と同義。こうすれば何を言いたいかが良く分かる、更に高柳の演奏には、一つのアドリブソロの中に必ずハイライトがあった。それが実にカッコイイ。
髙柳の残した言葉で特に印象的なのが<ピッキングは精神力>これはギタリストにとっては決定的なことだ。ピックを持ってギターの弦を弾くその強さが、その人間の強さのバロメーターとなると。利き手に持ったピックで弾く瞬間には、それ以前に音の選択、弦の選択、ポジションの選択、強弱、ニュアンスの感覚、そして一番大事なタイミングの選択が全て決定されていなくてはならない。要するに先が見えているか、意志決定はできているかという問いだ。どこかに迷いがあったらピッキングは弱くなる。言葉と同じだ。前述全て整って強いピッキングをする、必然的に左手はしっかり押さえないと弦が浮いてしまう。この連動が強い音を生む。<精神の充実無くして良い音はあり得ない>という真理。
<バーサタイル(versatile)たれ>
多面的、多芸であれとも唱えた。リズムの話で例えてみる。優れた演奏家と共演すると様々なメッセージや問いかけが迫ってくる。受け手が一つののり方しか知らないと(スイングビートは得意だけど…など)、いつも同じタイミングでの反応になってしまう。多様な反射や色彩を放つにはリズムのバリエーションが多いにこしたことはない。聴く側も同じ味付けでは飽きてしまう。例えば英語圏のジャズ、ソウル、ロック、カリプソ、レゲエなど、ザッと挙げても同じ言語でこれだけ違うリズムがある(筆者列挙)。ひとたび言語の壁を越えればその選択肢は一気に広がる。網羅は不可能に近いし、そこまでの必要もないが、自分に合ったリズムを複数見つけ反応の幅を広げる、ここが肝心かと。
<他の楽器をやってみること>も奨めた。音大でピアノ必修、副科で別の楽器を選択するように、別の角度から音楽を、自分の楽器を見直す事が大切だと。それも<ちょっと囓るだけではなく上手くならなくてはだめだ>とも。相乗効果。しかしその目的は<あくまでメインの楽器を通じて自己を完璧に表現するための手段であり過程である>とも付け加えた。また手を広げたことにより本業の楽器が疎かになった場合は<本末転倒、軸を失う>と痛烈に批判した。
リズムが一番大事だという教えを授かる中、<フレージングが命>という言葉に若かった私は多少悩みもした。稚拙な頭の中を<リズムが一番…>が支配し、自らのその稚拙なフレーズをいかに良いリズムで弾くかという無駄な追求をしていた。しかし特にジャズはそのフレーズの善し悪しが価値の前提となる。音の並び、高低強弱の順序がいかに考え抜かれ上手く並べられ、また伝統の良き面を踏襲したものであるかで説得力、スイング感が変わってくる。いくらリズム感が良くても内容が伴わなくては元も子もない。このことを高柳は<リズムは、ただ繰り返されるものではなく、運動、反射神経での優劣ではなく、どう順序立てて組み立て行くかという極めて知的な作業の連続と、選択の結果によって生まれる>と言った。<リズムは頭の中で創られる>というのは、我ら後進にとっては聞くと聞かないとでは大違いの大事な論理だった。
1970年代中盤のあのころに<ミュージシャンは手に職を持て>と説いた。当時はまだ日本の景気が上向いていた時代、そんななか高柳は、社会に要求されるまま迎合、脱落していくミュージシャンに鋭い視線を送った。我ら塾生には<自分のユニットを持て(ギタリストはギタートリオが基本)><活動の基軸を作り、それを最優先に位置づけ、何事にも押し流されることの無いように><そのためには生活の基盤をつくり健全に物事を考えられる態勢をつくる><そのための仕事を得る、それは必ずしも音楽に関わることで無くとも良い>これも<多芸たるべき>ことに繋がり、柔軟な思考の必要性も含んでいる。
高柳は寸暇を惜しみ寝る時間も削ってコピー(transcript)に勤しんだ。音楽の構造を根底から理解把握し、真実と嘘を見抜き、自らの糧とした。その膨大な量と並外れた気迫は常人の及ぶところではない。そんな中、我々塾生には多くの時間を割いてくれた。内容は時事、歴史、宗教、文学とその造詣の深さは計り知れない。おもしろバンド昔話も楽しみだった。話し出したら三時間四時間は当たり前。その話し方は、一日を駆け抜け燃え尽きるかのようだった。数多あるジャズ歴史上の巨匠達の音を、真剣に、誠実に、確実に聴いて体してきた高柳が<トリスターノ(Lennie Tristano)とコニッツ(Lee Konitz)のフレージングが一番進んだ>と…。当時…そうなんだ、でも難しいし…、と正面から受け止められなかった軟弱小生。今その重い扉を開けてみれば、全くその通り、後悔先に立たず。と遅ればせながらではあるがクールジャズに首を突っ込んでみて、実は初めて本当の意味でのジャズの楽しみを知った。
【クールジャズについて】 現代ジャズのフレージングの基盤はパーカー(Charlie Parker)とコルトレーン(John Coltrane)にあると言っても過言ではない(精神面は別とする)。先ず、ほぼ同時代人であるパーカーとトリスターノを考える。後進は、パーカーのスピード感溢れる完璧なそのフレージングを模倣することに盲進し、我を忘れる者も少なくなかった。そっくりさんも多く生まれた。それだけ求心力が強かった。その内容の素晴らしさから現代まで引き継がれて来たが、発想の源はパーカーの才能はもとより、超絶技巧や楽器の特性に由来する面も大きく、演奏する楽器によっては困難や不利な場合も生じた。またそのコンセプトは以後数十年で意外や大きな進化も無かった。今聴いても素晴らしいのはパーカーもトリスターノも一緒だが、パーカーは亜流を聴くよりやっぱり本家本元が一番(音色も良いし)、という気にさせられる。ではトリスターノ一派はどうだったか。まず、そのメロディラインの難解さによってさほど一般的にはならなかった。セッションで初見では簡単にできないメロディは、日々の生活がかかるミュージシャンにも当然敬遠されたであろう。しかしそこには独自のフレージングを通した貴重な方法論が示されていた。
パーカーが求心力ならトリスターノには遠心力があった。その楽曲とアドリブラインは考えに考え抜かれ、ルーティンに陥ることを悉く嫌った美学。通常辿り着きそうなところには決して落ち着かず、練りに練った芸術的裏切り。トリッキーでありながらアクセントの位置を始めとするジャズの基本からは全く逸脱していない整合性。ジャズフレーズの基本を踏まえジャズビートを脈々と発する事を前提に、新しい解釈を導入できるスペースを与えてくれる度量。そしてそのフレーズは、楽器の都合や手癖から出てきたものではなく、極めて音楽的に計算されていた。このことはアルトサックスであるコニッツにも顕著に表れている。ピアノ、サックス、トランペットなど小回りが利く楽器が有利なのではなく、音の並びを突き詰めて考えた者にチャンスが与えられる。特にこのことは音楽のベクトルが外に向いている証拠だ。この辺りが特徴とその価値ではないだろうか。個人的には”ジャズの中にやっと自分のカンバスを見つけた”感じだった。
コルトレーンは両者より後の世代の要人だが、ビバップから抜け出すための方策として、コード進行それ自体を変えた。四拍(一小節)を占めていたコードも二拍ずつ目まぐるしく変えられ、その移動幅も従来の度数を移り渡る進行ではなかった。新しい形は難易度が高く習熟を要した。今までと決定的に違うのは形(form)を変えたことだ。この画期的な手法は今もジャズの主流の方法論の一つとして定着している。これと比べトリスターノ(注:世代は過去)はフォームを変えることなく、従来の良くあるスタンダードナンバーのコード進行の上に(ほぼスリーコードの曲も多い)、それまで絶対誰もが思いつかなかったようなメロディラインを乗せることで新境地を開いた。昔からあったフォーマットながら、演奏者に想像を超える刺激とヒントを与えた。私は、このフォームを変えずに新しいビジョンを示したトリスターノの功績を大きく評価したい。トリスターノの共演者で後継者にもなったリーコニッツは、多少学者肌的でかつ教育者でもあったトリスターノの音楽に、更なる現実性と解りやすさを注入し、聴衆との距離を縮めた。私もトリスターノの基本概念と作曲、コニッツのアドリブラインを参考にすることが多い。高柳は<インコード(in chord)スタイルの最高峰>と位置づけた。
【セカンドコンセプト】
高柳はジャンルをごちゃ混ぜにして演奏することを絶対にしなかった。それぞれのスタイルが持つルールや特徴を活かすためはっきりと区分けしていた。その高柳の表現の根幹となっていたのが[New Direction Unit]だ。あらゆる足かせを取り払い、音と名の付くものは全て素材の候補とし、高柳が最も自由になれた総合芸術的演奏。ギターを金属で叩いても、素材音を録音したテープのスイッチを入れても、ミキサーのフェーダーを動かし音量を調節しても、実にリズム良く、タイムリーでバランスが良い。昨今のノイズ系と言われるそれとは全く違う。その理由は高柳がギターを弾いてスイングできるからだ。これぞまさにバーサタイル。その高柳がギターの通常の演奏を敢えてせずに、自ら厳選した音素材と考案した楽器(エレクトリックギターの弦をモーターを使い擦りノイズを出したり…)、道具を操ることで一大オーケストラを作り上げた。高柳はこれをファーストコンセプトと位置づけた。そして、インコードでありリズムキープもあるジャズバンド形式でのクールジャズ演奏をセカンドコンセプトとしたのだ。
・・・私は高柳より強い音楽を聴いたことがない。
不肖の弟子。師匠の演奏を論評をできるレベルにあるはずがなく、アルバムの内容には触れなかったことをお許し戴きたい。ただ、永く濃い時間の記憶からお話しすることはいっぱいあった。私は18歳からの17年間塾に通い、その教えで音楽界のこの荒波雑踏の中、道に迷わずに済んだ。そしていまこのアルバムを機にまた新たな指標を得た。我々の先には高柳昌行が居る。