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追悼 音楽

追悼・菅谷吉剛/音楽のために電気を極めた天才エンジニア

エンジニア・菅谷吉剛

 2010年7月6日。私はツアーを終えての帰路、岡山駅にいた。エスカレーターを上がり新幹線ホームを歩くとしばらくして、とてつもなく大きなスネアドラムのロールのような音が聞こえてきた。ザーーッ!!周囲も騒然となるくらいのそれは小太鼓奏者が何十人もいるかのようだ。突然のどしゃ降りが暑さでカラカラに乾いたトタン屋根を叩く。楽しく有意義だった滞在に後ろ髪引かれながらの帰途に天が区切りを付けてくれたのだと思っていた。 しかしそれは違った。恩師の不帰を告げるものだった。

【若き天才】  菅谷吉剛(スガヤヨシタケ)、電気学者、音響学者。そして無類のギター好き。大学で電気を学ぶも飽きたらず専門学校にも行き勉学を続けた。常に音楽の現場に足を運び探求を続けてきた。約40年前、大手楽器店が都心に旗艦店を出すに当たって核となるブレーンとして菅谷が登用された。当時20代前半の菅谷はその時代既に知識と見識が群を抜いていた。更に、ミュージシャン視点の楽器のあり方、お客目線でのニーズを的確な物言いでメーカーや輸入業者に注文した。輸入されるアンプなどは、日本人のクラフトマンシップや常識とはほど遠く、実はネジ止めもしっかりされていない事が多い。ただでさえ振動が大きいアンプ類、そのままで鳴らし続ければ間もなく異音が発生してくる。菅谷は一台一台点検し、ネジをしっかり締め直し店頭に出していた。そんな誠実な実力派は、楽器業界にとっては怖い存在だっただろうが、ミュージシャンとお客にとっては頼もしい限りだった。若くしてオーディオ会社の顧問も務め、スピーカーなど名器誕生に貢献した。そんな菅谷の父君は宮大工。その逸話、板二枚をカンナで削って、水一滴垂らすと二枚の板は吸い付き離れることは無かったという。血は引き継がれている。

秋葉原

【アンプ作り】  ギターを始めて以来、何台のギターアンプを試しただろうか。そのたびに菅谷は詳細に説明、また知らないアンプも数多く紹介してくれた。十余年の間に7~8台は購入したが、何度買い換えても自分の求める音は少しずつ変化し、模索の時期は続いた。”本当に欲しい物は売っていない”という結論。そんな私を見て菅谷は「オリジナルアンプを作ろう」と提案してくれた。ここからが個人的なつき合いの始まりでもあり、ミュージシャンとして認めてもらえた瞬間でもあった。ギターは何をメインに使うのか、弦は何を張るのか、その弦高は、ピックは、また肝心のサウンドはどういう方向かなど詳細に話し合った。このことが後述の回路と部品の選択に繋がる。一号機はもう四半世紀も経つ。その音は、優れた回路と厳選された部品によってギターアンプ史上類を見ない線の太さと安定感、存在感を持つ。そもそもアンプは電源トランスとアウトプットトランスというものが重要だと。まさにエンジンである。この容量が大きくないとパワーは出ない。「良いアンプは重いよ」と言うことも教わった。どんな激しい演奏にも、繊細な表現にも反応するこのアンプを持ってすれば、あとは我ら奏者次第である。

秋葉原

【部品と音色の連動】  ここ近年、私の奏法や音楽観にも微妙な変化があって、それに対応するべく、ギターアンプの微調整をしてもらっていた。巨匠直々拙宅に足を運んでもらい、私もそして菅谷もギターを弾きながら音色のチェックを入念に行う。音色の、音響の、周波数帯域のどこを聴くかという耳を研ぎ澄ましての作業。ギターのマイクをわずかに調整したり、スピーカーボックスの後板を少しずつ開けてみたり閉じてみたり…。この集中した時間が演奏の場では得られない貴重な体験となった。もうほんの少し低音が欲しい、、そういうリクエストに対し持参した抵抗、コンデンサなどの部品を選択し交換テストする。どの周波数帯域を変えるにはどの部品を変えれば良いかと言うことが完璧に頭に入っている。そこにミスはない。私達ミュージシャンは、楽器を扱うちょっとした動作の違いで音色や音質が変わることを演奏技術として備え、コントロールを目指すが、菅谷の場合、音色音質と回路、部品の連動が完璧に結ばれていた。電気の世界でも、何かを変えようとすると何かの良さが消えたり、害を及ぼしたりすることがある。あちら立てればこちら立たずの中、絶妙にバランスを考えながら、我が儘なミュージシャンのリクエストに応える。それは想像を遙かに超えた知識、論理性と経験値だった。また、その部品が秋葉原のどの店のどの辺りにあるかまでマッピングされていた。私はよく使いに行った。携帯が無い時代は何度も公衆電話からかけて指示を仰いだ。

秋葉原

【結実、そして不在】  酒を呑まない菅谷と麻雀もゴルフも分からない私とには日常的な接点はなく、話したことは全て音楽と楽器の事という36年間だった。特にこの12年は家もすぐ近くになり、何かあれば訪ねたり電話したりし、楽器で困ることは全くなかった。 5月末、アンプのボリュームを一個変えてみようということになり、私が秋葉原へ部品調達に行く事になっていた。その買い物メモは今もここにある。都合が付かずそれは叶わなかった。最後の最後の仕上げとも言うべき、また音色探求の小さなチャレンジでもあった。部品は分かっているが、私では交換することはできない。半田付けは見よう見まねでできるようになったが、もしもの事を考えるともはや回路に手を出すことはできない。

 私は菅谷の他界後、スピーカーの箱を作り直した。木工は私の担当。とは言うものの、最初は木材の選び方から、塗料の種類、ヤスリのかけ方ほか全てを教わった。もう20台近く作っただろうか。初めてアンプを作ってもらった時からスピーカーの箱のサイズについて、「車に積むこと、実際に運ぶことも考えて…」と言われていた。PA(音響設備・設営)会社経営の経験から、毎日使うのに運びづらい物を作ってもしょうがないという理由からだった。しかし私は今回この教えを破って少し大きめに作った。スガヤアンプの潜在能力を活かすにはこれだった、大正解だ。「運べるならそれにこしたことはないよ」と聞こえてくる。サウンドは結実した。もう回路をいじることはできないがその必要も無い。でも、この音は聴いてもらえない。

エンジニア・菅谷吉剛

【菅谷サウンド】  いつでも相談できる、いつでも直してくれる、いつでも作ってくれる菅谷の側にずっといた。自分の楽器、オリジナル機材のメンテナンスが、安心してステージに立つことの前提として、これほど大きなウェイトを占めていたとは。この世界に入って以来ずっと百人力を得、勝手に大船に乗っていた。その迷いのない、こちらが分からなくとも後で必ず正しかったことが証明される回答はもう得られない。


 19年前に音楽の師であった高柳の落命のとき、目の前が真っ暗になり指標を失うことの哀しさと絶望を知った。またそれは誰にも与えられる音楽家として先頭に立って生きていくことのスタートラインでもあった。しかし今回は、これだけ多くの指導を仰ぎながら、私には電気のことをほとんど引き継ぐことができない。 気高さゆえ病気のことは誰にも言わずに迎えた最期。あまりに早すぎる63歳での急逝。 今思う、私の中身の半分は菅谷サウンドだった。 合掌


♪いろいろお話をお聞かせ下さり、多くの場に立ち会わせて戴いた菅谷家ご遺族に心から感謝申し上げます。