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追悼・池上比沙之/音を出さない音楽家

#池上比沙之

2022年5月22日 多臓器不全により急逝

 全て書かれていた。それはあらためて凄い文章だった。
音楽評論家、ライター、ジャーナリスト、料理研究家、愛犬家…といろんな顔そして時期があった池上さん。私との繋がりは、小生初リーダーアルバム<Love Will Out(1990年)>のライナーノーツに、そのタイトルも「ぼくのこと、そして廣木光一のこと」として詳しくある。一新人ギタリストのためのライナーノーツなのだが、中身は池上さんの自己分析とも決意文とも読み取れる。アルバムは既に廃盤だが、文字起こししたのでお読み戴きたい(最下段にあります)。

「音を出さない音楽家」  廣木光一 (2022年)

80年代始め(古澤)良治郎バンドのサポートを買って出た池上さんは、ライブハウス、レコーディング及びリハーサルスタジオ、ツアーに同行、そして宴にも同席してくれた。自分は”ウィットネス(目撃者)”でありたい、”音を出さない音楽家”でありたいという信条の下、常に現場に出かけ、音の渦に身を委ね、楽屋ではステージを下りたミュージシャンに音楽を短く的確に言語化し伝え、サジェスチョンもした。実はこの”言語化”というのは、演奏に夢中になっているミュージシャンにとって、自己を見直し俯瞰できる、かつ思いもしないありがたい事となる。演奏そのものや演奏態度を言葉で言い表してもらうことによって、ミュージシャンは、音楽が日常からかけ離れた特別な行為ではないことを自覚する。

英語も堪能で、マイルス・デイビスとの単独インタビューでは、あのマイルスに、「俺が怖くないのか」と言われるも、「いや、こわくない」と切り返すところからはじまって、他では聞けない話も世に紹介した。古澤さんとリー・オスカーと我々の間に入って、普通なら通じえない事まで解り合えてでき上がったのが、アルバム<たまには/古澤良治郎(83年)>や<サブリメーション/リー・オスカー With 良治郎バンド(88年)>だ。池上さんが音を出さないもう一人のメンバーであることは確かだった。

私が20代後半のある時期、池上さんの事務所に通わせてもらい多くの話をして戴いた。……”それにしても凄い量の本とレコードですね”と言うと、「このくらい読み聴きしないとミュージシャンと対等に話せないんだよ」と。博学だった。今思えば、古澤さんやプロデューサーが池上さんに、あのころしょうもなかった私の教育係を頼んだのかも知れない。私はあの年頃において、ミュージシャンではない方つまり違った視点からの、開かれた地平の自由に繋っていく、そんな薫陶を受けたことはひたすら幸運だったと言える。

知り合ったころから既に酒は呑まなかった。良治郎バンドはメンバー全員浴びるほどの酒呑み、私も呑める口だったので仲間に入れてもらえた。そんなアフターアワーでもお茶だけで誰よりも熱く音楽を語った。なぜ呑まないか、聞いたことがあった。「呑んだときのあの感じがいつからか嫌になったんだよね……」。常にクリアでいたかった、極く聡明だからこその快感、そして境地なのかも知れない。同席したことはないが、ゴルフも距離を出したらしい。見るからに丈夫そうだった。後年は料理にも精を出し、ピットインの楽屋に持って来てくれたこともあった。やはり現場で会うとホッとした。最期にお目にかかったのもやはりライブハウスだった。

選び抜かれた確かな言葉と、評論家として希有なまでの行動を四十余年信じてきた。言い換えればこうでなければ信じられない。

私事、いま次作に向けた準備も整い、スタートとなった<Love Will Out>に繋がるボールをいざ投げるところまで来ていたのだが、間に合わなかった。私の現在のプランと行動は、池上さんが90年に書いてくれた通り、そのままをなぞっていた。

 合掌

「ぼくのこと、そして廣光木一のこと」 池上比沙之 (1990年)

 廣木光ーというギタリストは、ぼくの前に姿を現した時から気になる存在であった。記憶が正しければ、彼と”どうも”という程度の言葉を初めて交わしたのは古澤良治郎の4枚目のリーダー・アルバムが録音された日本コロムビアのスタジオであった。70年代後半に古澤のパーマネント・グループに抜擢され、ライブ・ハウスやコンサート・ホールで演奏する廣木は、多かれ少なかれロック・ムーブメントの洗礼を受けて成長した日本のジャズ・ギタリストのエキサイト志向とは、表現のスタイルを異にするようであった。ソロのオーダーがまわってきても、バッキングの時と同じような表情で演奏する廣木を”クール”という言葉で表わすミュージャン、ファンが多かったようだが、彼は演奏が終ると同時に生活人に戻るようなギタリストとは明らかに一線を画した存在だったと言えるだろう。つまり、明確なフォルム、サウンドにつながらない表現に対する欲望を山ほど抱え込んでいて、それを整理しきれない自分を”未だBクラス”として抑制していた時期だったのではなかろうか。そうしたインプレッションは彼が錯綜する方向の中で意味を探るタイプの表現者ではなく、一つの方向が生み出す意味の重層性を求めるタイプであることの帰結にすぎまい。ミュージシャンをサウンドのアスリートとするならば、廣木は若いアスリートにふさわしい秘められた闘争心と、飢えを持っていたのである。

 前述した古澤のリーダー・アルバムのスタジオで出会った時、廣木はぼくに対して声にならない”どうも”という黙礼を返してきた。その礼儀正しさの反面、ぼくを見る目は”なんだか訳のわからない関係者がまたスタジオにやってきやがって”という挑戦的な光が感じられたものだ。おそらく、この時期の廣木は、音楽も環境もコントロールされた必要不可欠なものであるべきだ、という欲求が満ちていたのだろう。そんなスタティックさは、日本のジャズ・シーンという特殊な環境にあって、決してプラスに作用したわけではない。彼が、”若手”から”中堅”と言われるまでの10年以上にわたる長い間に、夫々の時点でピリオドを打つのを拒否してきた(つまり、リーダー・アルバムの録音を拒否したり、あるスタイルで自分の音楽をまとめようとしなかったこと)ことにより、オーバー・グラウンドな認知においてはまわり道をすることになったのだ。だが、そのスタティックさに故に、ぼくの興味が廣木光一というギタリストに注がれたことは事実だ。

80年代の前半から半ばにかけて、ぼくは古澤良治郎の活動の周辺で時間を過ごすことが多くなった。古澤とハーモニカ奏者のリー・オスカーのコラボレーションをサイドからサポートすることになったからである。その過程で、ぼくは廣木と次第に多くの言葉を交わすようになった。やがて彼は、ミュージシャンではない人間の音楽に対する対峙の方法を認めてくれる唯一、と言ってよいほどの存在としてぼくの前にいてくれるようになったのだ。その当時、ぼくは自分の在り方に対してある確かな像を描いていた。それはシュールレアリズム詩人・美術評論家滝口修造が詩を書かない詩人、絵を描かない絵描きであるように、音を出さない音楽家でありたいという、だいそれた欲求だった。つまり、ひとつの運動に対する環境的なウィットネスでありたいという願いだ。

80年代の半ばのある期間、ぼくは廣木光一と”ミュージシャンとウィットネスの蜜月”と言えるようなインティメイトな時間を持つに至った。彼はしばしば、ぼくの仕事場に現れ、朝までレコードを聴き、ジャズというよりは現代音楽のあるべき姿について語り合った。ぼくは表現者の方法を、現代文学や美術の例を挙げながら廣木に語った。それは、自分の仮定を検証する最良の方法でもあったのだ。そんなコミュニケーションはある展開を誘発する。廣木が表現者として、現在という時間にピリオドを打ちながら、未来に向かって欲しいという希望だ。自分の現在の時間を、ある地点に到達するためのプロセスと考えるのは権威の秩序に対する屈服であり、そしてある作品をまとめないのは謙譲ではなく知的怠惰に過ぎないと、ことあるごとに廣木を挑発するようになったのだ。この希望が間違いでないことは明らかだ。だが、ぼくが廣木の私的なプランに対してどれほどの理解を示していたかは疑問である。ぼくはウィットネスとしてのアイディアに固執し、その展開を彼に求めていたに過ぎまい。だが彼は、”10年早いっスよ”などと言いつつ、自分の進行スピードのなかで、敬愛するギタリスト高柳昌行とのコミュニケーションを続けながら、最も厳密な方法を模索していたのだ。

数年前、ぼくは彼のオフィスのボスである川村年勝とともに、ロスアンゼルスのミュージシャンを核にしたレコーディング・プランを彼に示したことがある。そこにノミネートされたミュージシャンは元ウェザー・リポートのドラマーであるエリック・グラバットら、廣木の持つ抽象性にふさわしいチョイスをしたつもりだった。だが彼は、「そう言ってもらって、ホントにうれしいんですけど(ちっともうれしそうではなかった!)、いまボクはボクの方法で100%やってみることが希望なんです。ですから今回は、なかったことにして下さい。」
と、そのプランを却下したのである。師高柳昌行はそのことを聞き、「バカだな、お前。やってみればいいじゃないか」と言ったそうだが、ぼくはこの高柳発言を廣木から聞いただけで満足だし、うれしいと思った。おそらく廣木の数10倍はスタティックで、自分の出す音に厳しい高柳も、自分のコントロールが不可能な局面で、どう自己表現をするかという経験が、廣木にとってなにかをもたらすものと考えてそう言ってくれたのだろう。

ミュージシャンには、おおまかに考えて2つの対照的な自己表現の方法がある。そのひとつは、素材、人材から自分のコントロールが可能な方法で自己の総合的表現をめざすタイプだ。日本のミュージシャンで言えば、渡辺貞夫がこのタイプである。もうひとつは、他人の存在、表現を触媒としながら自己の反応を完結させるタイプである。渡辺香津美の多方面にわたる活動のある部分がこれにあたる。廣木光一の方法論が前者であることは明白だ。ぼくは、過渡的に後者の方法論を用いながら、廣木の潜在的な要素をスパークさせてみたいと思ったわけだ。そして、その方法はミュージシャンにとって付帯的な魅力を兼ね備えてもいた。だが、彼はそんなサブ・カルチャー的なオファーをはね返すほど、強い自我を持つ個性に成長していたのである。

このアルバムで演奏する若いミュージシャン群の出す音が、廣木のオリジナルのラインを、十二分に解釈してのものとは言い難い部分もある。だが、どんなフェイマス・ネームのミュージシャンであっても、その差異などは似たようなものにすぎまい、という廣木ならではのシニカルな判断と、したたかさがこのアルバムに収められた演奏に満ち満ちている。つまり彼は、ぼくの方法論とは正反対の方法をかたくなに押し通しながら、 ぼくが彼に求めていたキャパシティの広さ、深さを実現しているのだ。

ぼくはいま、そんな廣木光一のしたたかな粘りと、ピュアな意思にに敬服するしかない。

「やっと出来ました。聴いて下さい」と言って届けられた彼のファースト・アルバムは、ぼくにとってはぼくと廣木の10年間のすべてである。極論するならば、ぼくがいま見ているもの、聴いているもののある部分は廣木光一という鏡をぼくの内部に持つことによって初めて実現されたものだ。おそらく彼は、このアルバムの実現を機に、自分の拡張作業を進めて行くことだろう。アルバムを聴けばすぐにわかるはずだが、彼の実現した世界には、総合と分析、意思と反意思、抑制と解放というような相反するモーチベーションが幾重にも重なり合って、とぐろを巻いている。この情動性は、あるリーダーの下でパートを受け持つ廣木のギターからは感じとることができなかった種類の感覚だ。ぼくは、そんな廣木光一のピリオドを前にして、ここ数年、自分が停滞してしまった表現方法にたいしていら立ちさえ感じる。かつて、ぼくの存在方法の探求に対して付き合ってくれた挑戦的で優しいギタリストは、姿を変えて再びぼくの鏡として現れた。ぼくは、彼に対する感謝の気持ちと、永劫のライバルとしてのチャレンジを決意させられるのだ。

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写真:2011年6月18日 古澤良治郎名曲コンサート(追悼)@ピットインで筆者撮影